Essay

酒井広司氏(写真家)

1960年余市生まれ、札幌在住。グレイトーンフォトグラフス有限会社代表。1970年代より北海道を撮影対象に写真を制作。1980年東京工芸大短大部写真技術科卒。同年、「夏の消失点」にて第1回フォックスタルボット賞入賞、同大学の写大ギャラリーに収蔵。1984年より札幌にて個展開催、グループ展、企画展などに多数参加。2014年「偶景/SightSeeing」他にて第30回写真の町東川賞特別作家賞受賞。同年、第1回札幌国際芸術祭連携企画展「表出する写真、北海道」をNPO法人北海道を発信する写真家ネットワークにて企画担当。2015年個展「そこに立つもの」ギャラリー創。2016年北海道文化奨励賞受賞。同年、個展「北海道の旅」茶廊法邑ギャラリー。2017年、第2回札幌国際芸術祭公募企画展「Artripギャラリー+ゲストハウス」に参加。同年、個展「山に行く」北海道文化財団ギャラリー。公益社団法人日本写真家協会会員。札幌大谷大学非常勤講師。

 

「北海道、写真」

 2018年、この土地に「北海道」という名が与えられて150年になる。命名者が天塩川を歩いた時、この名が生まれた。国道40号線から脇道に入ると北海道命名之地標が立っている。その場所は音威子府村物満内(おといねっぷむらものまない)。川の対岸は筬島(おさしま)。彫刻家砂沢ビッキのアトリエが小さなミュージアムに生まれ変わって建っている。いまやこれらのことはGoogle Mapsがほとんどのことを教えてくれる。だが過去にあったが現在既に無いものは、Mapsには現れない。実際、天塩川の岸に立ったことがあるが、物満内に集落があり、過去、人が住んでいたことは想像できなかった。大きく蛇行した川には音もなく水が流れているばかりで、頭の中で150年を遡行するのは難しかった。

 私は北海道の余市生まれで、東京工芸大に2年間学んだ以外は北海道にいて、この地を被写体に写真を制作している。撮影対象を限定する強い理由はないが、足元から繋がって広がるこの土地を隅々まで見てみたいと未だに思う。写真に何が写るのかという自問にはほとんど答えられないまま日々が過ぎている。だが、この数十年の時間の断片と目の前に見えた北海道を、少しは写真に収めることはできたかもしれない。
明治初期の北海道開拓を撮影した田本研造の写真は、北海道大学図書館に収蔵されており、日本写真の先達であることは周知の通りである。そして50年前、日本写真家協会による「写真100年日本人による写真表現の歴史展」が開催され、そこで田本らによる北海道を撮影した写真が収録されている。この150年、北海道がいかに写真に撮られてきたか関心を持つ人は多いと思う。私もその一人である。

 札幌市には1993年から2010年まで札幌市写真ライブラリーがあった。写真の収蔵、保存と併設されたギャラリーでの企画展事業が行われていたが行政外部評価にあい、現在は廃止されている。写真分野に特化した稀少な施設であったので記しておきたい。現在、写真の収集とアーカイブ化を積極的に担う場が北海道にはないのが悔やまれる。写真はあらゆる人が積極的に撮影、制作するが、アーカイブ化されるのはいまのところごく一部であるのが現実だろう。保存場所の問題もあるが、世界中の写真をアーカイブしてしまうような写真を見る価値観が更新されれば面白いと思う。

 2004年、伊達市出身の掛川源一郎氏の写真集「gen 掛川源一郎が見た戦後北海道」出版と展覧会を有志の実行委員会で実現したことがある。同時代に共和町の前川茂利氏や写真グループ「長万部写真道場」の沢博氏らが活動していた。長万部(おしゃまんべ)に関しては2018年現在、北海道開拓写真研究協議会が古写真の保存、研究発表を行っている。2014年には札幌国際芸術祭の連携事業として「NPO北海道を発信する写真家ネットワーク」が「表出する写真、北海道」展覧会と図録出版(中西出版、2014年)を行なった。田本研造以降143年間、写真家28人による北海道写真84点を、図録では撮影年の順に掲載した。北海道写真のほんの一部ではあったが、各写真家のオリジナルプリントを展示して多くの人に見てもらった。

 写真について「北海道を被写体とした写真」から考えてみたいと思う。多様な顔を見せてくれる北海道は、写真家にとって魅力的な土地である。ここに在って風景の発見とともに、写真を発見すること。これが北海道で可能であると信じている。被写体とともに表れる写真それ自体を見てみたいと思う。そして写真が100年後もしかるべき場所で共有されることを願っている。

 

関次和子氏(東京都写真美術館学芸員)

東京都生まれ。多摩美術大学美術学部芸術学科卒業。1990年より東京都写真美術館に勤務。自然写真史、山岳写真史研究。企画した主な展覧会に「山を愛する写真家たち 日本山岳写真の系譜」(’99年)、「ナチュラリスト・田淵行男の世界」(’05年)、「海中2万7千時間の旅 中村征夫」(’06年)、「昆虫4億年の旅 今森光彦」(’08年)、「黒部と槍 冠松次郎と穂苅三寿雄」(’14年)など。英国自然史博物館主催「Wildlife Photographer of the Year 2015」、「5th Singapore International Photography Festival 2016」審査員。

 

「ネイチャーフォトと日本人」

 写真が発明される以前から、人類は自らが見た自然界のさまざまな現象をありのままに、正確に写しとどめたい、そしてその光景の中からわき起こる感動を誰かと共有したいという素朴な感情を抱き続けてきた。19世紀中葉、写真機という新たな視覚を手にすると、親しい人々の肖像や日常的な風景から、自然界の未知な部分に被写体を求めるようになり、足を踏み入れることが可能な限り、ありとあらゆる土地へと移動し、そこでの光景を写真に残してきた。

 しかし、皮肉なことに写真術の発明後、実用化が進んだ時代は、被写体となるはずの自然が人間の手によって大きく浸食され、姿を変えられていった時代でもあった。地球の環境に対する危機感の高まりを背景に、自然界の様々な現象をテーマにしたネイチャーフォトには国内外で高い関心が寄せられてきている。

 わが国におけるネイチャーフォトは、1970年代以降、多様な表現を展開し、昆虫や植物、草木や花、また天体や自然風景などからミクロの世界をとらえたものなど、その対象はさまざまな分野に広がり、さらにこれらを統合して科学的な面からアプローチする「自然科学写真」という概念も生まれた。

 写真家たちの活動を支える上でなくてはならない、カメラ機材のメカニズムの飛躍的な向上も、ネイチャーフォトの表現をより豊かにした要因であろう。自然界を被写体とする自覚的な現代のネイチャーフォトグラファーたちは、「写真家」という枠を超え、徹底した探求心と独自の哲学をもって、自然界と関わりはじめ、さまざまな現象を伝えることによって自然界の状況に目を向けさせ、人類が向かうべき将来について、警鐘をならす役割を担ってきているのである。

 「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。(中略)冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鷗(かもめ)の歌を友に木の葉の様な小舟を浮かべてひねもす魚を漁り‥‥」

 これは、大正11(1922)年、19歳の若さで夭折したアイヌ女性、知里幸恵(ちりゆきえ)が唯一残した著書『アイヌ神謡集』の序文である。彼女の生まれた北海道では、自然の中での幸福な暮らしはほんの数百年前には現実のことだった。北海道の自然は変化に富む気候条件に囲まれて、日本列島のなかでも類をみないほどの豊かな表情を見せていた。

 厳しく、美しく広大な自然を持つ北海道は、明治以降の開拓と開発によって原始の姿を大きく変え、その自然破壊の速さにおいては、日本列島の自然史上例をみないものであった。その反省をふまえ、「自然との共存・共生」という人類に与えられた命題ともいうべき言葉はまた、ネイチャーフォトが生み出され、私たちの生活や文化の中に浸透していった一つのキーワードであろう。自然界の現象を映像化する写真家たちの意志を支え、創造の源となっているもの、それは北海道の自然の中にも数多く息づいている。私たちは写真を通じてそれらの現象にこれからも熱く注目してきたい。

 

タカザワケンジ氏(写真評論家)

1968年群馬県生まれ。早稲田大学第一文学部卒。写真評論、写真家インタビューを雑誌に寄稿。写真集の編集、写真についての展示など、写真のアウトプットに対する実践も行っている。構成・解説を寄稿した写真集に渡辺兼人『既視の街』(AG+ Gallery、東京綜合写真専門学校出版局)、石田省三郎『Radiation Buscape』(IG Photo Gallery)ほか。著書に『挑発する写真史』(金村修との共著、平凡社)。ヴァル・ウィリアムズ著『Study of PHOTO 名作が生まれるとき』(ビー・エヌ・エヌ新社)日本版監修。東京造形大学、東京綜合写真専門学校非常勤講師。IG Photo Galleryディレクター。

 

「地方在住」写真作家たちの「表現」と「記録」

 写真は近代文明の所産である。したがって、多くの近代的発明と同様、都市から発信され、世界に広まっていった。写真の場合はパリ(ダゲレオタイプ)であり、ロンドン(カロ タイプ)である。写真はまず人口が集中し、お金と情報が集まってくる都市部において、 人々を楽しませた。1つは自分自身や身近な人の面影を撮影し、記録するツールとして。も う1つは、肉眼で見ることのかなわない未知なる世界を知るための道具として。

とくに後者は地方と写真という現代まで脈々と続く関係をつくり出した。まず都市の住人 に遠く離れた世界を見せることを写真は可能にした。そして、地方から都市へと移住した人々に故郷の懐かしいイメージを提供した。いずれにせよ、都市生活者は写真を見ることを 楽しみ、消費した。エキゾチズム、あるいはノスタルジーが地方の写真に与えられた役割だ った。

しかし、そうした商業目的の写真以外に、地方で撮影する写真家たちがやがて現れる。や がて、というのは間違っているかもしれない。もしかしたら、写真が発明されたごく初期か らいたのかもしれないが、注目を集めるようになったのは写真を表現として考える人たち、 つまり「芸術写真」に親しむ人たちが増えてからである。

砂丘を背景に人間たちが規則正しく並んだ演出写真。自然風景のなかにポツンポツンとた たずむ人々──という説明だけで、思い浮かぶ写真がないだろうか。おそらく多くの人たち がその写真を見たことがあるはずだ。写真好きならなおさら。植田正治(1913−2000)の 写真である。代表作の1つ、「少女四態」が撮影されたのは1939年、つまり昭和14年である。

植田作品の魅力は現実にあるものだけを使っていながら現実を超える、シュールな画像セ ンスにある。写真に写っている人たちの服装にはその時代の習俗が写っているから、シャッ ターボタンが押された瞬間が写っていることには間違いない。しかし、その瞬間はその時代 と場所に拘束されたものではなく、ここではないどこか、いまではない時間を描いていると 私たちには感じられる。時代と場所を超越した魅力があるのだ。

植田正治は鳥取県に生まれ、十代で早くも地元の写友会に入会し、芸術写真を志す先輩た ちから教えを受けている。その頃、同じ鳥取に塩谷定好(1899−1988)がいた。塩谷は地元のひなびた風景を撮影し、プリント時にディストーションを効かせる、顔料絵の具を使う「雑巾掛け」などのプリント技法を巧みに使うなどし、コンテスト入賞の常連だった。

植田は鳥取で営業写真館を営みながら、コンテストに入賞するほか、写真倶楽部を結成し たり、写真家集団の創立に参加したりしている。しかし、写真は売れなかった。その点では 自身が認めていたように「アマチュア」だった。しかし植田のその言葉には複雑な心境がに じんでいる。

当時の写真界はプロとアマチュアというヒエラルキーが厳然として存在していた。写真作 品の発表の場だったカメラ雑誌を見ればその違いは歴然としている。プロは口絵ページ、ア マはコンテストという棲み分けが固定し、プロがアマを教えるという構図が固定されてい た。そして、プロの多くは首都圏に在住していた。

 現在はウェブやSNSで写真作品を発表する、ギャラリーで写真展を開く、あるいは写真集をつくるなどの手段でプロアマを問わず作品を発表できる。そのため、かつてほどプロとア マの境界ははっきりしていない。というか、プロかアマかをあまり気に留めなくなったとい うべきか。そもそも写真表現、つまり、作品としての写真を考えたとき、何が生業かはまっ たく関係がない。

植田は東京のプロ写真家たちに混じってカメラ雑誌の口絵に作品を発表していた。しかし、生活の糧は別に得ていた。ゆえに1974年に書かれたエッセイで「アマチュアに毛が生えたぐらいのところだろう」という自己認識を明かしている。そのうえでこう書いている。 「もともと、シリアスな写真にはアマとか、プロとかの区別はあろうはずはなく、わがアマ チュアのみなさんが、いつも撮っている写真は、大部分がシリアスなそれで、私みたいに、 地方にいて、カレンダーにも売れないような写真を撮っているプロの端くれでも、プロの中 のシリアス派とでも、いうのかなとおもうのです(*1)。」

シリアスな写真とは、写真家が自らの表現として発表する写真作品のことである。1970 年代頃から使われるようになり、たとえば、「カメラ毎日」の伝説的編集者、山岸章二によ るジョン・シャーカフスキー(ニューヨーク近代美術館で長年にわたって写真部長を務めた)へのインタビューに「シリアス・フォトグラファー」という言葉が出てくる。日本語では「写真作家」である。

鳥取で写真店経営と写真活動の二足のわらじを履きながら、ほとんど依頼されることなく 自身の世界を表現し続けた植田はまさにシリアス・フォトグラファー(写真作家)そのもの だろう。そして植田作品のほとんどは地元とその周辺で撮影されている。では、植田にとっ て地元はどのような場所だったのか

植田の死後にまとめられた写真集『小さい伝記』に収められている秋山庄太郎──プロ中 のプロの写真家であり、「作品」づくりにも熱心だった。年齢は植田の7歳下で、長年にわ たって交流があった──との対談で、植田はこう語る。「山陰にいて、山陰というものにたい して何かひとつのイメージがあるわけではない」と語り、「もう仕方がない、そこでしか撮 れないから撮っているだけでしてね。」「山陰におるとなかなか写真になる対象に恵まれ ん。」ともいっている(*2)。

植田は海外の旅で撮影した写真も作品として発表しているが、結果的に代表作となったの はやはり住んでいた鳥取とその周辺で撮影した作品である。そこには、対象に恵まれないと 悩みながら、見慣れた風景と格闘することで生み出した創造的世界が写真に結実しているか らではないだろうか。

実際、珍しい被写体や、面白いもの、いわゆる絶景は紋切り型の表現に終わりがちだ。旅 の写真がしばしば観光写真の典型に収まってしまうのはそのせいである。見慣れた風景のな かから何かをつかみだすこと、あるいはつくり出すこと。そこに写真作品の1つの極がある といっていい。

一方、その場所にしかないもの、その地域の特色を記録することに徹したシリアス・フォ トグラファーもいる。たとえば浦田穂一(1933−2004)。岩手県紫波町出身で、1966年に 妻子とともに青森から岩手県遠野に移住し、亡くなるまでその地で撮影を続けた。遠野は柳田国男の『遠野物語』で知られる民話、伝説の宝庫である。浦田はそこでバーを経営するかたわら、失われゆく文物、伝統を写真に記録し続けた。その姿は、浦田に対して指導的立場にあった林忠彦──秋山庄太郎と並んで戦後の写真界を牽引したプロ写真家であり、『東海道』などの写真集でも知られる──からはこう見えていた。
「浦田君の写真は、私の知っている限り、作品のほとんどが遠野から1歩も出ていないし、 ほかのモチーフには目もくれない。

 彼は、心から遠野に憑れた男である。民話がいまだに生きているような、この街の人情、 風俗、風習、風景、古式豊かな祭りと、彼は撮りまくっている(*3)。」

林のこの序文が収められた写真集『写真 遠野物語』は写真で見る遠野といった趣で、カラーとモノクロで丹念に撮影されている。浦田の死後、遺族が遠野市立博物館に委託した写真フィルムのデジタル化のうち、モノクロだけで58,051点にのぼったという(*4)。そこには40年近い間に変貌していった遠野の姿が残されている。

最後にここ北海道の写真作家に触れておこう。函館の熊谷孝太郎(1893−1955)である。1910年から30年代前半までという限られた時期だが、函館を熱心に撮影している。植 田正治よりも20歳年上。世代としては塩谷定好に近く、当時のアマチュア写真家の主流はプリントに凝った芸術写真だったようだ。しかし熊谷は手持ちできるカメラを使い、路上の光景を数多く撮影している。その写真の自由闊達なフレーミング、ブレやボケをものともし ない果敢なアプローチは、雑誌や広告のプロの写真を見慣れた目から見ると乱暴に見えるか もしれない。しかし、熊谷の写真には、プロが依頼に応じ、説明的に撮った幾多の写真には 見られない、生き生きとしたリアリティがある。熊谷自身は作品の発表は考えていなかったようだが、近年、2冊の写真集が出版された(*4)。そうした意図せざる「作家」は世界 中あちこちに存在する。直近では、1960年代からシカゴを撮影し、生前には1枚の写真を 発表することもなかったヴィヴィアン・マイヤーが有名だ。彼女の写真が脚光を浴びたきっかけはインターネットだった。

都市から見た地方は、自然が豊かで素朴な人々が微笑んでいるイメージか、経済的に苦境 に立たされた過疎地域か、はたまた観光地か、などとステレオタイプのイメージに収斂しが ちである。しかし、ここに名前を挙げた写真家たちは、地方に住みながら、そこで自身の 「眼」で地方を背景に、あるいは、その世界そのものを表現しようとした。その土地から 「ここではないどこか」をつくり出すにせよ、その土地をドキュメントするにせよ、写真は 目にしたものしか写らない。写真の可能性は、あなたがいる、いまここにあるのである。

 

<引用文献>
*1 『植田正治・写真の作法—アマチュア諸君!』(光琳社出版、1999)
*2 『植田正治 小さい伝記』(阪急コミュニケーションズ、2008)所収の秋山庄太郎との対談(「カメラ毎日」1979年1月号)
*3 浦田穂一『写真 遠野物語』(誠文堂新光社、1981)林忠彦「序」
*4 熊谷孝太郎『はこだて記憶の街』(Mole、2007)、長谷川濬・詩、熊谷孝太郎・写真『木靴(サボ)をはいて』(Mole、2009)

 

大西洋(株式会社shashasha、株式会社CASE代表)

1966年生まれ。金融機関勤務、投資会社設立を経て2008年に美術情報誌 Articleを創刊。2012年より日本とアジアの写真集にフォーカスしたオンライン書店 shashashaをスタート。2015年には、case publishingを設立。「表現としての写真集」を考え、新たに本が与える体験を伝えるべく、精力的に活動をしている。

 

現代日本における写真集の系譜

 日本の写真界では近年「写真集」が欧米とは異なる形で発表され成熟してきています。

欧米の写真家が作品を制作する過程では撮影前のコンセプト作りが重要視されてますが、日本では多くの写真を自分の感性で撮りその中からコンセプトをみつけていくことが重要とされていました。

また、作品発表の場が欧米は主に美術館やギャラリーでのオリジナルプリントの展示であるのに対し、日本ではその中心が雑誌を含む印刷物、つまり本への掲載でした。特にアート写真家の中心的存在である森山大道や荒木経惟などが「写真集は作品の発表の手段ではなく作品そのものである」との見解に基づき、精力的に写真集を出版していることは多くの写真家に影響を与えていると考えられます。

日本が高度成長期を迎える以前の1970年代後半までは、文化・政治・思想・経済が大きく変化していく時代でもあり「表現としてのメディアである写真」と「情報を伝えるメディアとしての本」の親和性は高く「作品としての写真集」が多く出版されてきました。

しかしながら、高度成長期に入ると時代の変化とともに多くの写真集は「情報を伝えるメディア」の役割を担い、オリジナルの複製を多くの人に見せるためのカタログとして大量出版されることとなります。「表現としてのメディア」が忘れ去られていった時代であったと思います。また、大量生産される物質としての「本」は画一的なものとなっていきました。

特にここ数年はインターネットの急激な普及・発達による情報伝達手段の多様化と資本主義(キャピタリズム)への憧れの限界により、長い歴史を持つメディアである「本」の役割に変化が生じてきています。「表現としてのメディアとしての本」に内包される体験を伴った読書を通じてオーディエンスに「情報」以上のものを与えてくれる機能が多角的に再評価されているのではないでしょうか。

写真集が表現として身近になった一方で、そのすべてが 良質な写真集と呼ぶには難しい、玉石混交な状況でもあります。優れた写真集ができるためには、作品のクオリティ だけでなく、レイアウトや収録作品の選定、印刷の再現度、 適切な紙や造本の選択、デザインの検証など、多くの事柄 をひとつに束ねる必要があります。一冊の本を構成する要素のすべてがうまく収斂した時、その写真集は「表現」に 昇華されるのではないでしょうか。

アーティストと本の製作に関わる多くの人とともに、時代に適した「本」作りをしていきたいと考えています。

 

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